うつ病になって自分が発達障害だと気付いてから、脳のザワザワを静めようと努力してきた。脳のザワザワっていうのは、たとえば目を閉じて何も考えないようにしても、湧き上がってくる考えや記憶の断片である。
「腹減ってきたな。コンビニ行こうか」
「そういえば新作のプリンが美味いと同僚が言ってたっけ」
「まてまて今朝ちゃんと家の鍵を閉めたっけか?」
みたいな感じで、頭の中を空っぽにするって意外と難しいというか、ほとんど不可能に近い。しかもこの無駄な脳の働きは、無視できないレベルで脳のエネルギーを消費している。だからザワザワが酷い日は、本当にやるべき仕事や勉強に身が入らず、何もしていないのに疲労し、帰宅して寝ることだけを楽しみに雑に過ごすことになる。
脳のエネルギーを雑念に奪われて、日常をしっかり生きるのに必要な集中力や思考力が沸いてこないのだ。
ザワザワとした雑念の強さ(酷さ)は、前日にとった睡眠の質に強く影響される。だから根本的に症状を改善するなら発達障害的な睡眠障害に取り組むことになるのだけど、これには時間がかかる。
一方、もっと短期的な効果を見込める対策として、瞑想やマインドフルネスがある。この瞬間の身体の感覚(呼吸で出入りする空気の流れなど)に意識を集中することで、雑念を振り払おうというわけだ。
ところが、これが難しい。
僕はうつ病で精神科に通院していた時に「認知行動療法」というを紹介され、それ以来10年以上、瞑想の練習を日課にしている。我ながら、なかなか真面目なもんだ。
それでまぁ10年もやれば、さすがにある程度「あ、この状態が瞑想なんだろうな」という感覚を得られるまでにはなったけど、いまだに発展途上であることは間違い。
よく言われる人生観が変わったとか、多幸感に包まれるとか、そういう劇的な効果がほとんどないばかりか、かなり頑張って瞑想状態を維持しない限り、脳のザワザワだって依然そのまま僕の脳内に巣食っている。もし上手に瞑想に入れた場合には、頭の雑念を排除して静寂を楽しむことができる。でも少しでも集中が途切れると、たちまち雑念の洪水に飲み込まれてしまうのだ。
脳のザワザワに振り回されず、考えるべきことに集中力と思考力を注ぎ込むには、どうすればいいのだろう。
身体の自動操縦モード
目を閉じると雑念が押し寄せてくるというのは、瞑想指南本を読めば必ず書いてある現象であるため、きっと人類普遍の困りごとなのだろう。
ところが発達障害の気質があると、目を閉じていなくても常に雑念の洪水が押し寄せてくる。いわばザワザワに溺れないように、意識が雑念に沈まないように、なんとか正気を保っているような感覚だ。そんな状態で大切なことに取り組んだり、腰を据えてじっくり考えるなんてできるわけがない。
落ち着きがない、集中力がない、場に即した言動ができない。
結局は雑念に溺れずに正気を保つのに一生懸命で、目の前のリアルに対処する余裕を失っているから、そんな発達障害あるあるな困りごとが発生するようにも感じる。
つまり、発達障害の意識は、常に雑念と闘いながら、現実世界を上の空で生きているのだ。
これを僕は自動操縦モードと呼んでいる。
たぶん誰でも、最寄り駅から自宅までの道中は、上の空で何か考え事をしながら、気が付くと家に到着しているのではないか。これが身体の自動操縦モードである。何度も繰り返して慣れた行動は、それがかなり複雑な手順であっても、あえて意識エネルギーを振り向けなくても自動的にこなせるようになる。
こうした機能を司るデフォルトモード ネットワークという脳の神経回路が発見されている。脳の部位で言えば、内側前頭前野、後部帯状回、楔前部なんかが、意識しないときの活動を司っているらしい。
このデフォルトモード ネットワーク、一見便利な機能のように感じるのだけど、困ったことにメンタル エネルギーを大量に消費する。しかもさらに悪いことに、自動操縦モードに頼っていた人生の時間は後から意識できないのである(!)。
最寄り駅から自宅まで、ふと気が付くといつの間にか到着しているように、同じ日常を何年も自動操縦で繰り返すうち、朝起きてから夜寝るまで、仕事、育児、趣味でさえも、強烈に意識を振り向けることなく自動でこなせるようになる。
このように自動操縦していた日常は、当然記憶に残らず、後で人生を振り返った時に「無かった時間」になってしまうのだ。
ミヒャエル・エンデの『モモ』という作品に登場する時間泥棒とは、自動操縦モードのことなんじゃないか。よく、年を重ねると時間の進み方が速くなると言われる。これは日常生活が完全にルーチン化して、毎日のほぼ全ての営みを脳の自動操縦に頼った結果、そうして意識エネルギーを注入しなかった膨大な時間が人生の記憶からゴッソリ抜け落ちるからじゃなかろうか。
発達障害の幸福度を著しく損なう要因として「自分は何のために生きているんだ」という虚無感がある。つまり発達障害だと、次々と湧き上がる雑念の対処に忙しく、日常生活を強迫的にルーチン化して自動操縦モードに頼り過ぎてしまう。その結果、充実した時間の記憶を形成できないばかりか、心に強く刻み込まれるのは強烈なトラウマばかり…。
せわしない雑念を抱えたまま日常を生き抜くための自動操縦モードこそが、発達障害の虚無感を生み出しているのだ。
この瞬間に意識を固定する
というわけで、自動操縦モードは一見すると便利に感じるけど、毎日膨大なメンタル エネルギーを浪費して、発達障害の人生から充実感を奪っている。
それを踏まえると、発達障害の困った人生とは、脳の雑念に溺れないように一生懸命で、現実のリアルな生活を自動操縦モードに丸投げしてしまっている状態なんじゃないか。
だから集中できないし、ミスをするし、いつもボンヤリしているのに強い疲労感に襲われるんじゃないか。
あくまで僕の感覚だけど。
逆に言えば、自動操縦モードを抜け出し、現実世界に100%の意識を振り向けることができれば、発達障害の人生は豊かで充実したもになるはずだ。
いったいどうすればいいのだろう。
そう、「明日もきっと今日と同じ」という日常を、完膚なきまでに破壊すればいいのだ(=^・・^=)!
たとえば、今この瞬間に意識を固定する上で、異国に住むというのが、僕の場合かなり有効に機能している。外国に移住するとか現実離れしているかもしれないけど、とりあえず上手くいってるっぽいサンプルの1つとして読んで欲しい。
新しい社会システム、新しい言語、新しい仕事。そこで会社を作って、現地のインフレに耐えていく。
ガチガチに頭を使わなければ生き延びられない環境に自分を放り込むと、自動操縦モードに出番は廻ってこない。今日という24時間には、昨日とは全然違う困難が降ってくる。昨日獲得した経験が今日には全く役に立たず、ルーチン化のしようがない。
「明日もきっと今日と同じ」という日常を成立させないようにすると、毎日必死に生きざるを得なくなり、荒治療ながら脳のザワザワを軽減できている。
しかも上手いことに、僕は新奇性探求心が強いタイプの発達障害なので、定期的に国・言語・仕事をガラッと変えることで無駄な衝動性も抑えられている気がする。
もちろん、そんな毎日が冒険みたいな人生はめっちゃ疲れるのだけど、その疲労には充実感と自信がともなっている。ここまでよく頑張った。明日も新しい問題が発生するだろうけど、乗り越えてやる。俺ならきっと大丈夫、みたいな。
しかも日常、つまり同じ毎日の繰り返しをぶっ壊すと、自分が辿ってきた足跡が明確に記憶に残る。そして時間が経つのが遅くなる。
シンガポールをクビになり、フリーランス修行をしてオランダに移住し、起業しての自営業者としてコロナの混乱をなんとか生き延びた今、たった3年ちょっとの出来事なのに10年くらいに感じる。毎日大変なことばかりだったはずだけど、振り返ると自信や希望につながる記憶ばかりが蘇ってくる。
日常のルーチンワークを破壊して、脳のデフォルトモード ネットワークに出番を与えないこと。
これこそが発達障害の人生を充実させ、新奇性探求心を活かして自己肯定感を高める決定打だと、僕は確信している。