「みんな」のことが嫌いなんだ

そうか、僕は「みんな」が嫌いなんだ。

35歳でシンガポールの正社員をクビを言い渡されたとき、不安になるどころか解放感がドドッとやってきた。無職は恥だが、癖になる解放感をともなう。だから将来を悲観するよりも、刹那的な自由にさっそく意識が向いている。

こんな風に自己分析して苦笑した。

それならば。人生の自由度を高める方向で、とことん頑張ってみよう。

仕事面では会社に所属しないフリーランスを目指し、私生活では気の合う極少数を残してほとんどの人達との関係をすっぱり切った。頻繫に連絡する人は世界中に5人もいれば充分である。

生活に必要な人間関係を最小化することが、僕にとっての幸福度を高めると考えたのだ。

『嫌われる勇気』『幸福になる勇気』のシリーズは「すべての悩みは人間関係の悩みである」というのを前提に論が進んでいくのだけど、その中で「もし宇宙空間をただ独り漂っている人がいたら、その人には悩みが生じない」という下りがあった。

孤独の悩みや劣等感でさえ、地球で暮らす無数の人間の存在を知っているから発生する。この宇宙にもし最初から自分しか存在せず、もし自分と他人を比較するという概念さえなければ、孤独という感情すら生まれないし、どんな悩みも成立しないというのだ。

ちょっと詭弁っぽいけど、これを読んだとき「宇宙空間を独り漂って地球人を空から観察している自分」を想像してワクワクした。

ん、なんでそんな状態にワクワクするんだろう。

そうか、僕は「みんな」が嫌いなんだ。

日本でもシンガポールでも、客観的に考えて良い人に巡り会えた。いつも程よい距離感で接してくれる同僚、何かと声をかけてくれるご近所さんたち、いつもビールを買う行きつけの酒屋のおっちゃん。みんな善良な市民であり、僕に対しても好意的に接してくれていた。

それなのに、僕は彼らに対する警戒心を最後まで解かず、さらに日本やシンガポールから離れるタイミングで完全に関係を断ってしまった。

僕は潜在的に「みんな」のことが嫌いで、いなくなっても構わない、むしろいない方がいいと感じていたのだ。

これで良いはずがない。僕だって「みんな」を敵ではなく味方だと感じたい。仲間で構成された社会の一員として、仲間に貢献しながら愉快に暮らしたい。

「みんな」のことが嫌いだという気付きから、僕は愛着の再形成に取り組むことにした。